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2015年4月21日 (火)

80 馬淵 曜 私立ろう学校の前身 馬淵聾唖(ろうあ)学校を創設


     80 馬淵 曜 (まぶち あきら)

          私立ろう学校の前身 馬淵聾唖(ろうあ)学校を創設

   現在、 
  森崎にある横須賀市立ろう学校は
  小矢部にあった馬淵聾唖学校が発展したものです。

   この聾唖学校は昭和期の教育者、
  事業家(建設業)であった馬淵曜氏が
  私財を投じて昭和4年に創設されたものでした。

   馬淵氏は明治7年(1874)
  鳥取県東伯群古庄庶林に生まれました。

   明治27年(1894)私立東京法学院英法科を中退し、
  土木建設に従事し、
  明治42年(1909)に
  建設業馬淵組を設立しました。

   馬淵組は数多くの土木・建設を請負って発展し、
  市内では中堅の建設業者と知られるようになりました。

   現在に残る馬淵組が手がけた建造物として、
  米軍基地内にある旧海軍横須賀鎮守府庁舎があげられます。

   この建物は東京帝国大学を卒業したばかりの
  若き島田秀穂海軍技師が設計し、
  馬淵組が総工費23万7千2百76円で請負建設にあたったものです。

   起工は大正15年(1926)3月、
  完工が11月、
  わずか8か月間の短期で新庁舎は完成しました。

   突貫工事は馬淵組のお家芸であったともいわれています。

   事業の発展によって、
  馬淵氏個人も財を得たのですが、
  その私財は社会事業や教育事業に注がれました。

   聾唖学校もその一つでした。

   当初馬淵氏は御大典記念事業として
  日の出町の埋め立て地を買収し、
  児童公園を造る考えでしたが、
  視察旅行の途次、
  名古屋市の盲唖学校に立ち寄り、
  その授業を見学し、
  考えが変わったといわれます。

   昭和4年(1929)、
  馬淵氏の自宅を教室にして、
  12人の生徒で馬淵聾唖学校はスタートしました。

   創立当時の教員数は5人、
  しかし、
  昭和11年には生徒数も倍増し、
  教員も10人となりました。

   やがて校舎も建設されました。

   「立派な建物に住むことによって、子供らの心のゆとりとうるおいを」と
  馬淵氏の理想が生かされていたこの校舎はガラスの城とも称されました。

   ガラス窓は広く、
  資材は特上のものが用いられていました。

   炊事場には便所からのメタンガスを引いた
  ユニークな設備もほどこされていたともいわれます。

   建設業者であった馬淵氏ならではの校舎であったようです。

   馬淵氏が学校を開設して2年目の昭和6年4月、
  ニューヨークで世界盲人社会事業会議が開催されました。

   馬淵氏は日本の代表の1人としてこの会議に参加し、
  その折ヘレン・ケラー女史の講演を聞き、
  深い感銘を受けたといわれます。

   ヘレン・ケラーは3重苦の「奇跡の人」として知られる方です。

   昭和12年、
  このヘレン・ケラーが来日し、
  横須賀の下士官集会所(戦後のEMクラブ)で
  大講演会が催されたことがありました。
 
   この講演会には1500人の聴衆が殺到し、
  壇上まで参加者であふれたと伝えられています。

   この講演によって、
  障害者は勇気づけられ、
  多くの人びとが感銘を受けたことは申すまでもありません。

   実はこの講演会の仕掛け人は馬淵氏であったのでした。

   また、
  馬淵氏は横須賀市弘文会を設立し、
  市内の各学校長や教育課長を集めて
  研修講座を開くなど市の教育の発展にも尽くしました。

   なお、
  馬淵組は現在馬淵建設会社へと発展をしています。

     (辻井 善弥)

          続・横須賀人物往来

               平成11年(1999) 3月23日発行

         編集・発行 (財)横須賀生涯学習財団 

         http://www.mmjp.or.jp/shogaigakushu/

                    以上より 転載させて頂きました

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